オタクはなぜ「キモい」のか
昨今、有識なツイッタラーの間で「オタク差別」なるワードが頻繁に俎上に載るようになった。一部では、それを児童ポルノの問題に敷衍して論じたり、彼らを指差して「パブリック・エネミー(公共の敵)」と面罵する向きも見受けられたりと、界隈では激論の応酬がかまびすしい。
残念ではあるが、「オタク蔑視」の風潮がある程度のレベルで、一般大衆に根付いている一定の認識としてあること、これは言を俟たない事実であろう。
では、その風潮を醸成する要素とは、いったいなんなのだろうか。
あらかじめ断っておくと、本論では「オタク差別」について論考するつもりはない。それについてはツイッターランドの浩瀚なログ、叙上の碩学な猊下による示唆に富んだツイートが流れているのでそちらをあたっていただくとして、本論では、題の通り「なぜオタクは『キモい』のか」に照準を合わせ、オタク蔑視のカラクリについてのみ書いている。
この問題について知悉しているわけではないので、あんまり多くのことは語れない、というのがその実情だったりするが、その辺はご容赦いただきたい。
キモオタについて
「オタク蔑視」について論ずるためには、まずもってオタクの定義ないし「どのようなオタクがキモいのか」について理解する必要がある。物事には順序があり、それに則って語らなければ本質を見失いかねない。「オタク」という語の出現、そして当時の認識を持ち出すのは、通時的判断という意味において適当とは言いがたい。したがって、こんにち的な意味においてしっくりくる表現を引っ張ってくるべきだ。
手持ちの文献から雑に引用する。
オタクという言葉を定義化すれば、何か特定の分野に異常なまでの執着を示すこと、と言えるだろう。だからひと言でオタクと言っても、その愛情の矛先はあらゆる方向に向かっている。
アイドルや漫画、アニメ、鉄道、フィギュアといった、いかにもオタクというイメージにぴったりの方向もあるが、今はそれだけでなく、時計オタクとか靴オタクなど、本来的な意味ではない使われ方もする。健康オタクとか運動オタク、スポーツオタクといった、自己矛盾のような表現さえある。
つまりオタクという人種は、特定の分野に著しい情熱を持ち続けている人、と再定義されるのである。(以下略)
押井守『凡人として生きるということ』幻冬舎新書 p147,148
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しかし、読者の皆さんは「スポーツオタクはキモい」などとは思わないだろう。最近の認識にかんがみれば、オタクとは、趣味に没頭しているだけのパンピーである。「映画オタク」は「映画好き」という口当たりのよい言葉にも換言されるだろうし、端的に言ってしまえば、べつに「オタクはキモくない」のである。これは、「オタク」という語がある種の普遍性を獲得したことの証左であり、事実、わたしの友人もなにかしらのオタクである割合が高い。
この文脈において語るならば、「キモい」のは「キモオタ」であって「オタク」ではないことになる。
では「キモオタ」とはなんなのだろう。ことキモオタに関する限りは、これは定義のしようがない、というのが実際のところではないだろうか。例えば、「アイドルオタクはキモオタだ」などと発言すれば、アイドルオタクだけでなくそれ以外のオタク諸志から袋叩きにされるだろうし、わたしの友人のアイドルオタクからは絶縁されそうである。「アタシとアイドル、どっちが大事なの!?」無論アイドルである。
しかし、この「アイドル」にこそ、本論の要諦が導き出されるのではないか。アイドルとは“Idol”であり、つまるところ「偶像」を指し示す。
偶像には、アニメのキャラクターやそのものズバリのアイドルが代入される、と個人的には思う。それは、対象物を「人間のようなもの」と規定していながら、自家撞着的にその人間性を脱臭している、という点において両者が一致しているからだ。一種のイデアの顕現、ととらえてもよいかもしれないが、個人的にアイドルやアニメのキャラクターは「理想形」ではないのでこの表現は控えたい。
そして、極めて抽象性の高い「萌えアニメ」というコンテンツにおいては、その人間性の脱臭が限りなく重視される傾向にある。対キャラクターの相互的な意志疎通が不可能である以上、萌えアニメにひどく耽溺するオタクの対人行為、社会的な営為の質が低下する、という問題は蓋然性を帯びる。
これはわたしの先日の経験だ。
すし詰めの電車に乗り込み、姿勢を崩すまいと拳固をドアに突っ張っていると、目の前にはせわしく画面をタッチする男。男は音ゲーに興じていた。足に掛ける体重を入れ換え、鼻息荒く終始もぞもぞと動きつづけるその男は、無論のことパンパンに膨らんだリュックを背負ったまま。男がからだの向きを変えるたびにそのリュックが周囲の人間にぶつかるが、それに頓着することなく音楽に合わせて激しく指を動かす。リュックには誇らしげにいくつもの缶バッジが留められ、そこには萌え豚の好みそうなアニメのキャラクタがプリントされていた。
男は、明らかに「キモオタ」に類する眼鏡デブだった。
社会性の欠如は直ちに「公の秩序および善良な風俗」に反する。個人的観測に基づく統計ではあるが、確かに公共の場において秩序を乱す傾向にあるのは、ひとに対する配慮を失った重篤なアニメオタクだった。これが、炎上したツイッタラーをして「パブリック・エネミー」と言わしめた原因ではないだろうか。
「キモオタ」は「キモい」
アニメオタクや萌え豚はすべからくキモいのだ、という愚にもつかない結論に帰着するつもりは毫もないが、キモい傾向にある、というのは残念ながら事実であろう。それはいちいち証明する必要もない。迷惑な乗客がアニオタだった、という経験だけに裏打ちされる情報ではないことは自明だ。18年間生きてきてキモいアニオタエピソードなんぞは枚挙にいとまがない。
ただし、ここで「キモオタは萌え豚だ」と断ずることには意味がない。本論の要旨に背馳するからだ。
これまで述べたように、オタクがキモい理由は、そのオタクが社会性を放棄しているからだ。社会が世論を意味し、言論空間として機能している以上、その秩序を擾乱する行為をする人種を非難するのはこれ理の当然というものだろう。そして、社会の要請に反するのが多くの場合オタクなので、オタクは「キモい」と、そうなるわけだ。
オタク蔑視については、この方が実に明快な表現をされているので、そちらを参照されるのが吉。ちょっと古いですけど。
けしてマイノリティが云々と言いたいわけではない。先に引用した文献にはこんな記述もある。
先進国の若者がすべてオタク化する傾向にある
あまり深く考えないほうがいい。ともあれかくあれ、我々みんなオタクなんだから、キモオタにだけはならないようにしましょうね、という話。